雑念の供養

いつかどこかの誰かのために。遠くて深くて届かない声の記録。

1%

何度かカウンセラーに通ったことがある。 やはりプロなだけあって、話す内容とかスーって入ってくるし、言われることも的確で心地がいい。

方向性としても基本的にプラスになること、もしくはプラスの方向にむかっていくように話しているので、 結果的にどのカウンセラーに当たっても、最終的に言われる内容は似たり寄ったりだった。

「少しずつ」でも毎日の考え方やできたことが積み重なれば、 長期的に見たときに、それは散り積もでかなりのプラスになっている。 それは自分では気づかないけれど、振り返った時にとても大きな変化となっていると。

言葉では理解できるしとても正論だと思う。 しかし、我々のような人種にそれを腹落ちさせるのは至難の技だと感じる。

なぜなら、物心ついた時からのマイナスの積み重ねが大きすぎて、 取り返しのつかないところまで精神的にやられてしまっている、あるいは考え方になってしまっているから。

だから我々は何か大きな改善やアクション一つで劇的にプラスに持っていけるような、 魔法のようなものを無意識的に探し求めているのかもしれない。

せっかく色んな努力をして積み上げてきたプラスも、この強靭なマイナスに打ち負けてしまう。 マイナスの複利が大きすぎて、今更始まったプラスの複利だと時間のアドバンテージがあるため追いつけない。

私の思考はいつもこのプラスとマイナスがせめぎ合い、 基本的にはマイナスに負けてしまっている。当たり前かもしれない。

でも、そんな自分でも最近思うことがある。 一言で自分を被害者ヅラして負けてしまうことは簡単だし、マイナスに流されるのも簡単。 そしてそれを周りのせいにして逃げることも簡単。

なぜならそうやってこなければ、ここまで生きてこれなかったから。 いつまでも同じ場所に居たくないから、もがいてるんでしょ? なんで思考してるの?何のために思考してるの?

そんな少しの闘う意思があるから、フッと吹けば一瞬で消えてしまうような火だけど、 それさえも消してしまったら人間ではなくなる気がする。

一生努力しても叶わないかもしれない。 ただ、少しでも前に進もうともがいている自身に酔って希望を見出すのもいいかもしれない。

1%をマイナスの複利とするのか、プラスの複利とするのか。 いま、その選択をした、その思考をした、その発言をした、その行動をした、

これらすべて自分で「選んでいる」ことを認識した方がいい。 自戒を込めて。